培養肉の倫理的、法的、社会的課題(ELSI)とは?:信頼に基づくイノベーションをめざして
(2019年10月02日)
はじめに
社会技術研究開発センター(Research Institute of Science and Technology for Society:RISTEX)では、新しいテクノロジーの倫理的、法的、社会的課題(ethical, legal and social issues/implications: ELSI)への取り組みを行っています。ELSIとは、ごく簡単にいうと、新しいテクノロジーの研究開発を進める際、あるいは社会実装の際の、社会との接点で起こりうるさまざまな課題のことで、RISTEXでは、これらをできるだけ早く把握し、対処することを目指して活動を行っています。その一環として、筆者が所属するチームでは、今年度より、「培養肉」のELSIの検討をJST内の研究開発部門と連携する形で開始しました。そこで、今回は、「培養肉のELSI」とはどのようなことか、そして、その取り組みによって何を目指すのかについて概説します。
培養肉の現在
培養肉とは、生きている家畜から細胞を取り出し、これを人工的に増やすことで得られる食肉のことです。大量培養生産の方法など、まだ技術的な課題は残っていますが、この技術が確立すれば、従来の畜産方法で必要とされてきた大量の飼料や水、広大な土地の利用を大幅に削減することが可能であると言われています。
また、世界の畜産部門に起因する温室効果ガス(GHG)は、人為的に排出されるGHGの約15%にあたると報告されていますが[i]、培養肉はGHGの削減にも期待できます。
そのほか、食肉生産には必ず家畜のと殺という過程がありますが、培養技術を取り入れることで、殺さなければならない家畜の数を減らすことができます。その上、培養肉は無菌の環境でつくられるため、感染症や食中毒のリスクを回避できるほか、肉に含まれる脂肪分を健康によい油に置き換える等により、健康増進に役立てることもできます。
現在日本では人口減少が顕著ですが、世界的にみると人口は増加しており、2050年には90億人を超え、食料需要が6割増加すると予測されています。なかでも、食肉の需要は、約7割増加すると推定されていますが[ii]、ますます深刻化する地球規模の環境問題への対応が必要であることから、できるだけ環境への負荷を増やさずに、必要とされる食料を生産し続ける方法が求められています。培養肉は、こうした地球規模の課題に対するひとつの解決法としても期待されているのです。
人口増加にともなう食料問題や環境問題への取り組みとしては、他にもさまざまな方策の検討や研究開発も進められています。食肉に替わる新たなたんぱく源の生産という観点では、例えば、培養肉に先行する技術として、植物や菌類等を材料とした代替肉、なかでも植物肉(plant-based meat)は食肉に非常に近い食感や味をもつようになっています。
他にも、魚介類の培養や新しい養殖・育種技術の研究開発も進められていますし、昆虫食は、国連食糧農業機関が推奨したことで話題になりました[iii]。他にも、ICTやロボット技術を活用したスマート農業やフードロス対策など、多種多様な方法が検討されています。これらをうまく組み合わせ、国際的に課題解決していくことが今後ますます重要になっていくと考えられます[iv]。
培養肉の倫理的、法的、社会的な課題(ELSI)とは?
とはいえ、培養肉が本当に私たちの食卓にのぼり、そして、将来の食の一つのオプションとなるためには、まず、この技術が社会に受け入れられなければなりません。
そのためには、研究開発におけるELSIと社会実装におけるELSIにきちんと取り組む必要があります。研究開発におけるELSIのなかには、社会的な信用を得られるよう公正な研究の実施を徹底することや、社会への応用を見越して行われるべき実験等が安全かつタイムリーに行えるような規制の設定などがあります。
例えば、日本の食肉培養技術は再生医療技術の応用が主流で、使う材料が医療用であり、飲食することが想定されていないことから、研究用の材料でつくった培養肉は試食することができないそうです[v]。
また、食べるためには安全性等の検証が必要ですが、培養肉を一体どのような「食品」として扱うのか、まだ決まっていないのです。このような新しい問題にできるだけ素早く対応できるようなルールづくりの体制が必要でしょう。
社会実装におけるELSIの例としては、図表2に挙げたような「安全性の保証」、「便益の保証」、「理解増進」、「利害関係の調整」、そして「新しい食文化の醸成」などが挙げられます。ここで重要なのは、いずれにおいても、技術の提供側と受容側の両方からの知見が求められることです。
例えば、従来「理解増進」というと、専門知識を持たない人々が、新しい科学技術について正しく理解すること、と限定的に捉えられがちでしたが、今ではこれに加え、技術の提供者や政策に関わる人々が、「新しいテクノロジーのありかた」や「未来社会のありかた」について市民がどのような考えをもっているかを理解しようとすることの重要性も認識されています(図表1)。
いずれの課題も簡単ではありませんし、他にも様々な課題が想定されますが、食肉培養という技術が社会に負の影響を与えてしまう、あるいは、本当は有用なのに負の影響を与えるものと理解され拒否されてしまう、といった帰結をELSIに取り組むことで回避できる可能性は高まるでしょう。
技術の提供側と受容側が、共にELSIに取り組むことができれば、科学技術と社会とが信頼に基づく関係性のなかで、未来社会のためのイノベーションを進めていくこと、つまり、「共創的科学技術イノベーション」の実現につながると考えられます。
図表2:培養肉の社会実装に係るELSIの例
安全性の保証 |
培養肉および添加物の安全性を担保する法規制など |
予期できない事態が起きた時に対処できる法的手段など |
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便益の保証 |
環境負荷の減少や、家畜のと殺数の削減などが確実に実現されるための法規制やモニタリング機構の形成など |
理解増進 |
技術の受け取り手と想定される人々への正確な情報提供、理解増進など |
受け取り手と想定される人々のもつ技術像や未来社会像に関する情報や社会文化的知識の、研究者など技術の提供側への提供、理解増進など |
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新しい技術に関するリスクコミュニケーションなど |
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利害関係の調整 |
既存の食品との適切な差別化のための調査や法規制など |
新しい技術の登場によって、特定の利害関係者の社会的立場や生活の質が著しく落ちないような保障制度や継続的対話の実施など |
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他国との関係のなかで生じうる利害関係の調整など |
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新しい食文化の醸成 |
新しいフードテクノロジーと伝統的な日本の食文化の望ましい関係性の検討など |
おわりに
上に挙げたような、培養肉のELSIに取り組むための第一歩として、現状を知ること、とりわけ技術の受け取り手となる私たち一人ひとりが、この技術をどう理解し、どのように向き合っていくのか、議論を重ねて言葉に表していくことが重要です。そして、その結果に基づいて、具体的にどのような形で社会に実装すべきか、研究開発や事業化を担う人々と共に考えていく必要があります。また、今後明らかになってくるELSIをできるだけ早く把握し、対応できるような体制作りも重要です。このような取り組みを着実に進めていけるよう、その下地作りをRISTEXは進めていきたいと考えています。
[i] Food and Agriculture Organization of the United Nations (FAO)ホームページ(http://www.fao.org/livestock-environment/en/)(2019年9月27日時点)
[ii] F AO, “World Livestock 2011: Livestock in food security”(http://www.fao.org/3/i2373e/i2373e00.htm); “World Agriculture towards 2030/2050: the 2012 Revision”(http://www.fao.org/3/a-ap106e.pdf)(2019年9月25日時点)
[iii] FAO (2013), “Edible insects -Future prospects for food and feed security” (http://www.fao.org/3/i3253e/i3253e.pdf)(2019年9月27日時点)
[iv] The EAT-Lancetでは、まずエビデンスの構築から始めている(https://eatforum.org/eat-lancet-commission/)(2019年9月27日時点)
[v] 文部科学省情報ひろばサイエンスカフェ『たんぱく質クライシスx培養肉~未来の食への課題と期待~』での話題となった。(https://stw.mext.go.jp/common/pdf/cafe/20190719.pdf)(2019年9月27日時点)。ただし、食品を培養液として培養することでこの問題を克服している例もある。(https://integriculture.jp/news/294/)(2019年9月29日時点)。
科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)
アソシエイト・フェロー
三村 恭子
三村 恭子(みむら・きょうこ)
科学技術論、科学技術とジェンダー。ロンドン大学UCL(科学史・科学哲学・科学社会学専攻)、東京工業大学(経営工学専攻)の後、2003年お茶の水女子大学大学院博士後期課程(ジェンダー学際研究専攻)単位取得満期退学。科学技術論や科学技術とジェンダーの非常勤講師等を経て、2019年より科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)アソシエイト・フェローに着任。