水の来し方行く末から考える持続可能な環境の科学、工学
(2019年2月15日)
(1)はじめに
古典落語「寿限無」は、産まれた子どもに良い言葉を全て名付ける滑稽話です。その中に、果てしなくてめでたいとして「水行末(水の行く末)」という言葉が登場します。空から降ってきた水の行き先はまさに千差万別です。河川から海に流れる水、湖沼に長くとどまる水、土壌を浸透して地下水になる水、ダムや涵養林(かんようりん)を経て飲料水や農業、工業用水として人間に利用される水、蒸発して再び雲になる水。水の行き先を想像すると、あらゆる環境を通って循環する水のありようが思い浮かびます。このような「水の大循環」を研究する水文学をはじめ、土木工学、農学、化学、気象学、物理学、生物学、地学、医学など多様な専門分野を横断して、水資源利用や水環境保全のための研究が世界で今も活発に進められています。水はあまりにも身近なので、はるか昔から研究し尽されて、もう課題が無いのではないかと思うかもしれませんが、そうでもありません。
(2)世界の水の研究開発の発展、世界の水事情
水の質の保全は、健康で衛生的な生活に欠かせません。水の質に係わる科学技術の発展史をみると、特に19世紀のロンドンで象徴的な発見や発明がありました。当時のロンドンは都市化、人口集中が進み、中心部を流れるテムズ川は下水処理されない汚水がそのまま流され、ひどく濁り、悪臭もして「モンスタースープ」と呼ばれていたそうです。1829年に土木技師ジェームス・シンプソンが微生物を利用した緩速ろ過法を実用化して、時速10センチメートル程度のゆっくりした速度で下水の浄化が始められました。良い技術ですが普及速度もゆっくりで、なかなかロンドン全域には行き渡りませんでした。そうして1854年、まだモンスタースープのひどい悪臭(瘴気(しょうき))の立ち込めていた中、コレラが流行しました。当時、空気がコレラの感染経路と信じられていた中、医師ジョン・スノウによる世界初の疫学研究で水が感染経路と分かり、発生源の井戸を閉鎖したことで感染の拡大を防止できました。水源の調査で迷信を払しょくして人命を救った医学研究には誰しもが感銘を受けます。
筆者は昔、物理と化学の偉人マイケル・ファラデー(1791~1867年)の足跡を偲びにロンドンに旅行したことがあります。ファラデーがモンスタースープの濁度調査に参加した逸話も残っていて、計測の大切さにも気付かされました。現在のロンドンでは、きれいなテムズ川を気分良く眺めながら、そのような科学技術の環境への貢献に思いをはせることができます。
次に世界の水資源の量を考えてみます。「地球は水の惑星」という言葉がありますが、地球の水のうち約97.5%が海水で、淡水は残りの約2.5%です。人間が利用しやすい表流水(河川や湖沼の水)は全体のうち約0.01%と大変少ないです。年間総降水量約12万km3のうち約4万km3が表流水となっています。もしも地球全体で一律均等に降水すれば、世界の70億人が1人1日およそ1万6千リットル(2リットルのPETボトル8千本)の水資源が使える計算になります。しかしここで注意しなければならないことは時間的分布と空間的分布です。毎日均等に降水するような気象はありませんし、地理的にも降水量は大きく異なります。また身近な生活用水だけでなく、灌漑(かんがい)や工業生産にも多くの水資源が必要です。このような水の偏在性から、先進国であっても米国のカリフォルニア州のような渇水地域やシンガポールのような過密地域では水資源の確保は特に優先順位が高い課題となっており、例えば下水再生水などの研究開発が注目され、普及も進んでいます。下水だった水を飲用利用まで出来るレベルまで浄化したと言われても、初めて聞くと心理的な抵抗がありますが、限られた水資源を持続的に利用するためにはこうした再利用技術が重要になっています。
(3)日本の水事情と研究開発への注目
日本の河川や湖沼の水質は、特に高度経済成長期に悪化して、全国各地でどぶ川が流れ、メチル水銀による水俣病まで発生しました。経済発展の速度に対して、環境保全の重要性の理解や技術開発、導入が追い付いていなかったと言えます。そのような歴史を経て、日本の水処理技術は大変進み、現在では、例えば水道管の漏水検出技術は世界最高水準になり、水道水がおいしく飲める水になっています。
河川を浄化できた東京都や北九州市などの水道技術は途上国の関心も高く、技術協力が行われています。日本の残る課題として、ほぼ全ての河川は水質基準を満たすまで回復していますが、湖沼や地下水は未達成のものが残っており、浄化のための研究開発が継続して求められています。
日本が主導して2017年に発効した水俣条約は、世界で水銀汚染を防止して二度と同じ公害病で苦しむ人が生まれないよう願いが込められています。浄水処理では塩素耐性をもつ病原菌クリプトスポリジウムを不活性化させるには紫外線(UV)が有効なのですが、従来のUV光源は水銀ランプしかありませんでした。2014年ノーベル物理学賞は青色発光ダイオード(青色LED)の発明で日本人が受賞しましたが、さらに波長の短い紫外発光ダイオード(UV-LED)を、水銀ランプの代わりに適用することを目指した研究開発も進んでいます。UV領域(200~400 nm)で様々な波長で発光できるUV-LEDの特性を生かして、菌種ごとに異なる波長感受性をもつ病原微生物を効果的に消毒できる技術開発や、小型でメンテナンスも簡単なことから水道未普及地区での実証試験が行われていて、筆者も注目しています。
次に日本の水資源の量を考えてみます。日本は平均降水量が高いから水余りだと漠然と思ってしまうかもしれませんが、日本国内でも降水には地域的、季節的に偏りがあります。特に人口過密の首都圏の水資源賦存量は中東諸国と同じ水準で、1人1日およそ9千リットルと世界平均の半分程度です。また、大陸の緩やかな傾斜の大河と異なって、河川の勾配が急峻(きゅうしゅん)で降水しても短期間で海洋に流れてしまう問題があります。そのため、水源涵養林や利水ダムが保全されています。
世界の水不足問題から注目される日本の技術の1つが逆浸透膜です。逆浸透膜は大きさ0.12~0.14nmのナトリウムイオンのろ過が可能で、海水を加熱して蒸発させて凝縮させる蒸発法よりも低価格で省エネルギーに淡水化できます。日本では最先端のカーボンナノチューブを用いた逆浸透膜の研究開発などが進められています。
気候変動によって集中豪雨や無降水期の長期化など極端気象の頻発化が予測されていて、その適応策を考えるためのシミュレーション研究も行われています。コンクリート化された都市部での内水氾濫(都市型洪水)や高潮による下水逆流など、従来では考えられていなかったリスクに備えて、身近な貢献が期待できます。
(4)みずみずしい社会のための水の研究開発
冒頭に述べたように水は地球規模で循環しています。そのため世界中の国々が協力して人間社会の水資源問題に取り組む活動というものも存在します。最近、日常生活の中でも少しずつ目にするようになってきた国連のSDGs(Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」)をご存じでしょうか?17の目標が掲げられている中で、6番目に「すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する」という目標があります。この目標に向かって各国・地域で様々な取組が行われています。例えば途上国における水インフラの整備や、人工知能(AI)を活用して衛星画像データ等から地下水の所在を推測する技術の開発、あるいは安価かつ簡便に利用可能な水を確保する技術の開発等がありますし、途上国に限らず先進諸国における都市の持続可能な水の管理のためのシステム構築を目指した研究もあります。
とりわけ昨今、国際的な問題として、海洋プラスチック汚染が話題となっています。モンスタースープになぞらえた「プラスチックスープ」という言葉まで目にします。微細なマイクロプラスチックが生態系だけではなく人の健康にも悪影響をもたらすのではないかと心配されています。日本はプラスチック回収の社会システムも整っているものの、まだ解明されていない環境での動態など科学的な課題が多く、この貢献についても日本は世界から期待されているように感じます。
ところで日本にいながら海外の水をたくさん使っていると言われたら、PETボトルのミネラルウォーターがまず思い出されることでしょう。しかし、食料生産にもエネルギー転換にも水が必要です。海外から輸入した製品やサービスには現地の水が用いられています。その仮想的な水を「バーチャルウォーター」と呼びます。この概念で試算すると、日本は世界一のバーチャルウォーター輸入国で、1人1日およそ1,500リットルもの海外の水を使っていることになると水文学の研究により分かっています。身の回りや日本の水質維持と水量確保はもちろん大切ですが、バーチャルウォーターにまで思いをはせて水の来し方、行く末を考えると、世界の水問題は決して他人事ではないと気が付きます。
ジョン・スノウやマイケル・ファラデーのように多様な科学や工学の知恵を集めた水の研究開発は、持続可能で、みずみずしい社会のためにまだまだ必要だと考えています。
【参考資料】
1) 科学技術振興機構 研究開発戦略センター「俯瞰ワークショップ報告書 環境や社会の変化に伴う水利用リスクの低減と管理」(CRDS-FY2018-WR-07)(2018年9月)
https://www.jst.go.jp/crds/report/report05/CRDS-FY2018-WR-07.html
2) 科学技術振興機構 研究開発戦略センター「研究開発の俯瞰報告書 環境分野(2017年)」(CRDS-FY2016-FR-03)(2017年3月)
https://www.jst.go.jp/crds/report/report02/CRDS-FY2016-FR-03.html
3) 科学技術振興機構 研究開発戦略センター「Beyond Disciplines – JST/CRDSが注目する12の異分野融合領域・横断テーマ (2018年) –」(CRDS-FY2018-RR-02)(2018年8月)
https://www.jst.go.jp/crds/report/report04/CRDS-FY2018-RR-02.html
科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター(CRDS)
環境・エネルギーユニット
フェロー 松村 郷史
松村 郷史(まつむら さとし)
2003年3月大阪大学大学院工学研究科応用物理学専攻を修了後、(株)東レで工業用プラスチックフィルムの製品開発に従事。2006年JSTに入構し、CREST、FIRST、FUTURE-PV、STARTでは特に半導体や太陽電池、光学などの基礎研究やプレベンチャーなどのファンディング業務を担当。2018年にCRDSに異動してからは、環境分野の研究開発動向や俯瞰調査を担当し、環境に優しくなろうと心がけている。