脳科学とAI
(2018年10月01日)
コンピュータが碁で世界チャンピオンに勝ったことはすでに旧聞に属し、スマホに話しかけると音声で答えてくれることは日常の一コマであり、自動運転車の実用化は明白になっています。人工知能(AI)技術のすさまじい発展は遠くない将来多くの職業を人から奪い、果ては人間社会そのものをコントロールするだろう、という文明論的議論を巻き起こしています。また企業は業務のAI化を迫られ、AI人材の育成が急務となっています。これに対し人間の知的活動の全部をAIで置き換えるには、現在のAI発展の大きな原動力となっている深層学習(ディープラーニング)だけでは力不足で、深層学習とは異なるアルゴリズムの開発が必要であることも言われています。
深層学習はヒトの顔や物体の特徴を処理するのに膨大なデータを学習させることが必要ですが、人間の幼児は一度見ただけで顔や物体の特徴をつかむことができます。深層学習は1970年代末に福島邦彦博士が提唱した「ネオコグニトロン」に源流を遡る技術で、大阪大学にあった福島博士の研究室の隣に偶然脳科学の研究室があり、そこで耳にされた脳の視覚情報処理に着想を得られたという話があります。深層学習では到達できない人工知能を実現するために、視覚情報処理以外の脳の機能を手本にしたアルゴリズムの開発の必要性が強く認識されています。ここが脳科学とAIの接点です。
脳の機能の解明を目指す脳科学は、生物学的に脳を理解しようとする実験的研究と回路モデルや脳のアルゴリズムを考える理論的研究に分かれていて、後者はAI研究に直結しています。神経細胞の生物学として始まった実験的研究と神経回路や脳全体の動作モデルを考える理論的研究の接点は長い間ほとんどありませんでしたが、21 世紀に入って実験技術の飛躍的な進歩とともに、神経回路あるいは脳全体を対象にした実験的研究が可能になってきており、理論的研究と相互に知見をやり取りすることにより脳を総合的に理解できる可能性が見えてきました。
計測データに基づいた精密な脳のモデルの構築を通じて脳の機能の全体像が理解できるのではないかと期待されていて、欧米では理論と実験の両方に通じた若手脳研究者が増えています。日本はこれまで理論と実験両方の脳科学分野で多くの成果を挙げてきましたが、ここに至って理論と実験両方を理解する次世代脳研究者はあまり育っていないように見えます。この問題は広く認識されていて、脳科学分野への大型研究資金の題目として「情報科学と脳科学の融合研究の推進と若手研究者の育成」が最近よく挙げられています。しかしながら若手の育成については、欧米では理論神経科学を含む脳科学を専門に学ぶ神経科学学部・研究科が多く設置されていることと対照的に、国内には理論と実験両方にまたがる脳科学のカリキュラムを組んでいる大学・大学院がほとんどないことが理由として挙げられるかもしれません。日本が脳科学と次世代のAIで世界のトップレベルに伍し続けるためには今本腰を入れて検討すべき重要な問題だと考えます。
科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター(CRDS)
ライフサイエンス・臨床医学ユニット
井上 貴文
井上 貴文 (いのうえ たかふみ)
1992年、大阪大学大学院医学研究科内科系専攻博士課程修了・博士(医学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学医科学研究所助手、助教授を経て2007年から早稲田大学理工学術院教授として神経科学の研究・教育を行っている。2017年より科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター(CRDS)のフェローを兼任し、ライフサイエンス・臨床医学分野(特に脳神経科学分野)の調査・政策提言活動にも携わっている。研究者の立場を活かした科学技術政策への提言を模索している。