量子技術2.0から量子ICTへ ~量子力学を情報処理に生かす~
(2018年11月01日)
- 「量子」って何?
「量子(りょうし)」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか? 「量子」というのはすごく小さい粒子と波の世界の話です。目には見えませんが「量子」の性質は私たちのくらしのいろいろなことに使われています。スマートフォン、インターネット、パソコンなど、ありとあらゆるIT機器は実は量子技術のかたまりです。
例えば、スマホの中にはCPU、メモリー、カメラ、加速度センサー、バッテリーなどが入っています。それらをさらに拡大して見てみると、ナノメートル(100万分の1ミリ)のとても小さな世界で、原子が整然と並び、その周りに電子が雲のようにうずまいているのが見えます。このような極微の世界での原子や電子の動きを記述する物理法則は量子力学と呼ばれています。
CPUの中に並ぶ無数のトランジスタは半導体でできています。その中にいる無数の電子が規則正しく動くことで、ゲームや動画などの複雑な情報処理を行っています。すべての電子の運動を正確に予想することは古典力学では困難ですが、量子力学ではたった1つの波として扱うことで、正確かつ簡便にトランジスタの性能を予測できます。同様に、光通信を支える半導体レーザーもやはり量子力学でその特性を予測できます。このように、スマホもパソコンもインターネットも、量子力学に従って規則正しく動く電子がその情報処理を支えているのです。
さて、「量子」といっても、そのような名前の粒子がいるわけではありません。「果物」という名前の果物がないのと同じで、「量子」という名前の粒子はありません。ミカンやリンゴなどの総称を「果物」と呼ぶのと同様に「量子」も原子、分子、電子などの総称です。光も「フォトン」と呼ばれる粒子として1個2個と数えることができるので、量子のひとつです。
- 政府投資が加速する「量子技術2.0」
このような量子力学の原理を利用した「量子技術」の代表例は集積回路や光通信です。これらは、とくにコンピューターやインターネットなどのICT(情報通信技術)として私たちのくらしを支えてきました。最近では、量子の状態をさらに精密に制御し、量子もつれや量子干渉などの量子特有の性質を最大限に活かす「量子技術2.0」とも呼ばれる新技術の研究開発が世界中で加速しています。量子技術2.0の代表例は、量子センサー、量子通信、量子コンピューター、量子シミュレーターなどです。
欧州では「量子マニフェスト」に基づいて10億ユーロ(約1,250億円)規模の研究開発投資が予定され、科学研究と産業競争力を強化し、「第2の量子革命」の牽引がうたわれています。イギリス、ドイツ、オランダなどの国では、それぞれ独自の量子技術戦略と政府投資も準備されています。欧州の量子技術2.0への力の入れ様は、第1の量子革命とでもいうべき半導体産業が米国や日本で花開き、量子力学発祥の地である欧州には産業として根付かなかった雪辱を果たすという意味もあるように見えます。
中国も国を挙げて量子技術2.0に注力しています。とくに量子通信分野では、北京と上海を結ぶ全長2,000kmを超える量子通信幹線ネットワークの構築や人工衛星「墨子」による量子暗号鍵配送と量子テレポーテーション実験の成功など、中国の目覚ましい成果に世界が注目しています。安徽省合肥市に新しい国立研究所の建設も始まり、量子コンピューターや量子センサーなどの分野にも重点投資が続く見込みです。
危機感を募らせた米国では、今年6月に「国家量子イニシアティブ法」案が下院に、「量子コンピューティング研究法」案が上院にそれぞれ提出され、政府の動きが活発化しています。9月には2つの法案の内容を包含する形で「量子情報科学の国家戦略概要」も発表されました。国立科学財団(NSF)やエネルギー省(DoE)がすでに研究プロジェクトの支援を表明したほか、国立標準技術研究所(NIST)の主導で「量子経済発展コンソーシアム」も設立される予定です。
我が国ではこれまで、縦割り行政の影響もあり、量子技術を一体的に推進する科学政策や重点投資戦略はありませんでした。しかし、1999年に早くも電子情報通信学会エレクトロニクスソサイエティ内に「量子情報技術研究会」が発足するなど、量子技術2.0の研究開発の蓄積は決して少なくありません(米国物理学会に量子情報の分科会が発足したのは2002年でした)。
2017年8月に文部科学省が「量子科学技術(光・量子技術)の新たな推進方策」を発表し、日本でもいよいよ量子技術2.0への注力が始まりました。翌年に「光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)」の公募が開始され、10月には複数の大規模プロジェクトが採択されました。また、内閣府SIP(第2期)「光・量子を活用したSociety 5.0実現化技術」も始まり、2016年に開始したJSTのCREST「量子状態の高度な制御に基づく革新的量子技術基盤の創出」、さきがけ「量子の状態制御と機能化」、ERATO「中村巨視的量子機械プロジェクト」などまで含めると、現時点での量子技術2.0への我が国の政府研究開発投資は少なくとも年30億円程度の規模と見積もられます。今後の科学政策・産業政策の動向も目が離せません。
- 量子コンピューターの今
量子技術2.0の中で、もっともチャレンジングなテーマは量子コンピューターの開発でしょう。量子コンピューターは、量子干渉や量子もつれといった量子特有の性質を利用して計算をする次世代コンピューターです。大規模な量子コンピューターでは、因数分解や検索などの特定の種類の問題を現在のどんなコンピューターよりも圧倒的に効率よく計算できます。
量子コンピューターの計算能力は、構成の基本単位である「量子ビット」の数・性能と、それらを制御する「量子ゲート」の性能によって決まります。因数分解や検索で何かの役に立つ計算をするには、少なくとも100万個もの量子ビットが必要になると見積もられており、そのようなハードウェアは残念ながら今はまだありません。
大規模量子コンピューターへの道のりは長そうですが、近年Google、IBM、Intel、MicrosoftなどのIT企業が開発競争に乗り出し、小規模な量子コンピューターなら今から5年くらいの間には実現しそうです。スタートアップ企業も次々と登場しています。50量子ビットくらいの規模になると、量子的な振る舞いの全てをスパコンでシミュレーションするのが大変になってくるので、量子コンピューターに有利な(特殊な)問題設定では、スパコンを凌駕する計算パワーを実験で検証できそうです。このような小規模量子コンピューター上で動く新しいアルゴリズムも続々と登場し、量子化学や機械学習などへの応用に期待が高まっています。しかし、量子ゲート操作につきもののエラーを訂正する仕組みが無く、長時間計算するとエラーに埋もれて正しい答えが取り出せなくなってしまいます。そのため、大規模で実用的な問題を解くにはまだ性能が足りないという見方も強いです。
コンピューターとしての動作にはソフトウェアがとても重要です。量子ソフトウェアを開発するためには、アイディアを量子プログラムとして書き下すプログラミング言語や、それをマシンで実行できるように変換するコンパイラ、実機の代わりに計算を模擬したりプログラムを検証したりするシミュレーターなど、多くのツールが必要です。もちろん、ツールを使いこなす「量子プログラマー」のような人材もこれから重要になってきます。量子ソフトウェアの開発環境は少しずつですが整備されてきており、自分のパソコンにインストールして量子コンピューティング体験ができるものもあります。興味のある方はぜひ手を動かして試してみると、量子コンピューターの「今」の雰囲気が分かると思います。
大規模量子コンピューターの実現には、量子の不思議な振る舞いを精密に制御し情報処理に生かす方法論を確立する必要があります。それには、実験してみないと分からないこともまだたくさんあります。また、量子コンピューターを論理的エラーから守る量子誤り訂正理論や、量子コンピューターが得意とする問題の性質を調べる計算複雑性理論など、理論的な研究も必要です。量子技術2.0を支える学理基盤として、物理学・化学・電子工学・コンピューターサイエンスなど多くの分野をまたいだ「量子コンピューターサイエンス」の学際的な基礎研究が、これまで以上に重要になるでしょう。
- 量子ICTにむけて
量子技術2.0はそれ単体ではなく、インターネットやスマホなど現代のICTと適材適所に組み合わせ、「量子ICT」として使われることで、私たちのくらしにより大きな変革をもたらすと期待されます。最も実用化が進んでいる量子暗号・量子通信でも、今のネットワーク技術の一部の機能しか実現できておらず、まだ多くの可能性が残っています。
量子コンピューターは当面、従来のコンピューターと協調して複雑な計算に挑むアクセラレーターとして使われるでしょう。小規模量子コンピューターのクラウド提供が始まり、世界中でいろいろなアルゴリズムが試されています。量子センサーや量子通信との組み合わせなど、誰も思いつかなかった全く新しい使い方がまだ掘り起こされず、私たちの発見を待っていることでしょう。
参考資料
[1] Qmedia -研究者が書く量子関連情報を正しく伝えるメディア-
https://www.qmedia.jp/ (2018年10月15日時点)
[2] WIRED (2018.02.24), “まだ「実用的」ではない量子コンピューターを、なぜ企業は採用するのか──JPモルガンとダイムラーの思惑”
https://wired.jp/2018/02/24/testing-quantum-coputer/ (2018年10月15日時点)
[3] 日経サイエンス4月号, “特集 量子コンピューター 米国の開発最前線を行く”, 2018.
http://www.nikkei-science.com/201804_031.html (2018年10月15日時点)
[4] MIT Technology Review (2018.03.14), “量子コンピューター覇権争いグーグルは量子超越性を実証できるのか?”
https://www.technologyreview.jp/s/78181/google-thinks-its-close-to-quantum-supremacy-heres-what-that-really-means/ (2018年10月15日時点)
[5] 人民網日本語版 (2018.3.13), “量子通信ネットワークが10年後には各世帯までカバーへ”
http://j.people.com.cn/n3/2018/0313/c95952-9436413.html (2018年10月15日時点)
[6] 文部科学省, “量子科学技術(光・量子技術)の新たな推進方策 報告書”, 2017.
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/089/houkoku/1394886.htm (2018年10月15日時点)
[7] CRDS, “戦略プロポーザル「革新的コンピューティング ~計算ドメイン志向による基盤技術の創出~」”, CRDS-FY2017-SP-02, 2018.
https://www.jst.go.jp/crds/report/report01/CRDS-FY2017-SP-02.html (2018年10月15日時点)
科学技術振興機構 研究開発戦略センター
システム・情報科学技術ユニット フェロー
嶋田 義皓
嶋田 義皓(しまだ よしあき)
JST 研究開発戦略センターフェロー。博士(工学、公共政策分析)。2008年東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻博士課程修了。2008年日本科学未来館科学コミュニケーター、2012年JST戦略研究推進部主査を経て、2017年4月より現職。2018年に政策研究大学院大学科学技術イノベーション政策プログラム博士課程修了。専門分野は、物理、科学コミュニケーション、ICT、科学政策。2児の父。